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雑記帳
先日の朝日新聞に福原義春氏(資生堂名誉会長)の言葉が載っていた。自分は《こだわり》という言葉にたいして悪いイメージは持っていなかったので、少々気になってスクラップしておいた。
朝日求人というページの「文化は仕事の燃料である」 福原義春が語る仕事ー1 (4回連載)の冒頭の部分を少し長くなりますが、ここに再掲させていただきます。
『人はつい、こうでなければならないという枠にとらわれる。懸命にひとつのことに打ち込んできたり、成功体験を積んでくると、その思いはいっそう強くなるようです。それは一見すると正しい信念のようにも思えますが、本当にそうでしょうか。別の見方をすれば、こだわりを持つ人は、他の新しいやわらかい考え方を受け入れないと言うことでもある。すると新鮮な知識や情報という栄養が入ってこなくなって、結局立ち枯れていくのです。花や木と同じように、私たちは今日の栄養を得るために地下に根を広げなければならない。強すぎる自我にとらわれるのは、草や木の根が切れた状態なのです。
今は亡き作家司馬遼太郎さんが小説『坂の上の雲』の中で、「精神主義と規律主義は、無能者にとって絶好の隠れ蓑である」と書いていますが、個人のこだわりや形式主義が、考えることを阻み、本質をむしばんでいくということでしょう。気づかぬうちに私たちは、この落とし穴に落ちてしまいます。物事を判断する物差しが、ただ一本になり、それ以外の価値観を受け付けなくなります。人として、仕事人として、これは心して避けなければなりません。世の中には自分が知らないことの方が圧倒的に多いのですから。
たとえば仕事の経験の中で非常に成功した方法論があるとしても、それはその時の、時代の流れや状況でうまくいったのではないかと冷静に考えてみてください。今日はまた新に、人の意見を聞き、時代の流れに耳を澄まさなければならない。本質を見据えなければならない。
我執、自我は最も離れがたく手ごわい。そこから自由になれば人間は変わっていきます。・・・・
ー以下略ー 』 (談) 2003年6月29日朝日新聞朝刊
なるほど、《こだわる》とは執着しそれに囚われることだったのだ。
われわれが「今回の展示にはこだわりました」とか「うちは額装にはこだわりをもっています」などと言うのは、少々言葉の使い方が間違っているのかもしれない。自分も含めて、ある種のこだわりを持った画廊というのが、一般人からみて何かとっつきにくく馴染みにくいというのは想像に難くないが、それもそこに原因があるのかもしれない。
画家の中には自我にとらわれ苦悩し、時として悲劇を生む場合などがまれにある。われわれは、そこに画家としての良心をみて感動したりもする。しかし画商は仕事人であるから、とらわれてはいけない。
福原氏は、メセナ活動をされたり芸術家の支援に熱心な方であるからよりいっそう言葉に重みがあると思う。
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