雑記帳

8.昭和一桁&山中現 2005.2.20

 山中現は、1954年福島県喜多方のお茶を商う商家に生れた。
漆黒の夜空に星が輝き、芋虫のような形の人物が佇む初期の作品のファンは多い。これらは、土蔵の窓から来し方の未来を思い、ひとり夜空を眺めている自画像だ。
若い頃は誰もが将来への不安を抱くことがあるが、この木版画への共感はただそれだけによるものだろうか?  以下は私の勝手な仮説。

 ずいぶん以前に新潟で岡本信治郎展があったとき、評論家のヨシダヨシエ氏が「昭和一桁生まれの者には独特の感情があるんですよ」と言われたことがある。その後ずっと忘れていたが、昨年末の「丸木美術館ニュース」にそれと思われるヨシダ氏の言葉があったので、以下紹介させていただく。

 ・・当時(戦争末期)私は工場で戦闘機の部品を作っていました。そこに校長が乗り込んできて「日本が最後の戦争に賭けているときに、このクラスからは特攻隊員がひとりも出ていない」と、級長の私を睨み付けて叱りました。私は「特攻隊員になります」と言い、近眼を治すために毎日星を見ました。もし目がよければ特攻隊に行っていたでしょう。
その頃は配属将校が中学にいて、毎日のように殺人の訓練を受けました。彼は戦争が終わると、頭を七三にわけポマードを塗りたくって現れました。「今に米軍が来る。俺が軍人だったことは言うなよ」そして「裏山に穴を掘って、銃を折って埋めろ」と言ったのです。昨日まで天皇陛下から戴いた銃だと言い、僕らを殴り蹴飛ばして立派な軍人になれと言っていた男がです。大人の裏切りに、どんなに少年の心は傷ついたか。 「天皇陛下から戴いた銃を折るんですか」と泣きながら言いました。彼は「とにかく埋めろ。銃はなかったことにしろ」と言いました。 今でも埋めた場所に立ち会えます。それは、僕らが憎しみをこめ、敗戦を呪いながら埋めた銃です。・・・・・・
−ヨシダヨシエ「原爆の図」を語る(2004.11.3於:丸木美術館)抄録 《美術館ニュース第81号より転載》

 その後、ヨシダ氏が「原爆の図」を背負って全国行脚したことは有名な話だ。*1
先日ヨシダ氏と同窓で元特攻隊員池田龍雄氏の個展を見た。池田氏といえば、おどろおどろしいデッサン画を思い浮かべるが、あの「梵天の塔」をはじめとするパフォーマンスは、デッサンに描く「悪夢」を永遠の時の中に封印する作業のように思えた。
同じく昭和一桁の針生一郎氏が軍国青年から一転して戦後、反権力の姿勢を示したのも同じ構図に思える。
作家や知識人は「多感な時期に価値観の大転換を強いられた」というトラウマに対峙したとして、その他多くの人がそのまま遺伝子の奥底にしまい込んだとしてみよう。(ある種のニヒリズムとして)

私は山中氏と同年の生まれだ。私の父親は昭和一桁のうまれだから、山中氏もそうかもしれない。
「・・♪・訳の分からないことで、悩んでいるうち老いぼれてしまうから・・」という歌があるが、
訳の分からないのは遺伝子からきているからであるとしたら・・・
山中氏(ヨシダ氏)と同じ夜空を眺めた記憶が、我々の遺伝子にも刻まれているとしたら・・・

暇に任せて、山中現の木版画を眺めていると、妄想がどんどん膨らんでゆくのであります。
(少々無理がありました)

*1 「解体劇の幕下りて」(ヨシダヨシエ自伝)に詳しい。





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